「香穂、最近綺麗になったよねぇ」

香穂子さんと菜美さん

3年に進級すると同時に、香穂は金澤先生や音楽科の先生など周りの薦めもあって音楽学科へと転科した。
それでも、今までいた普通科の私たちとは以前同様の付き合いが継続されている。
現に今も私は部活を、香穂は放課後の練習を終えてから駅にあるファーストフード店で向かい合っている。

「煽てても何も奢らないよー?」

ずずず、と行儀悪く残り少ないウーロン茶の入った紙コップの中身を啜りながら、香穂が私の言葉に首をかしげる。
香穂は、冬海ちゃんのような可愛さや、オーケストラの際指揮をしていた都築さんのような美人というわけではないのだろうけれど、人を惹きつけて放さない―そんな魅力がある。

「煽ててなんかないって! なんていうのかな、愛されてる女のオーラ?」

香穂が思わずズルッ、と滑る。
そう、3年生に上がってからというもの香穂は所謂”女の色気”が身についた。
それに過剰反応している人間が数名身近に入ることを知っているからこその台詞だったのだけれど。

「何言ってるの…、私にそんな暇ないの、菜美だって知ってるじゃない」
「いや、そうなんだけどさぁ。毎日毎日ヴァイオリン漬けだし。だけど、コンクール参加者なら付き合ってても不思議じゃないのよね。今でもよく一緒に練習してるんでしょう?」
「…まぁ、柚木先輩と月森くんを除いて、だけど」

高校までで音楽を辞めなければならなかったらしいフルート奏者の柚木先輩は外部の大学に今通っていて、火原先輩は上の大学へ進み教師になるべく奮闘中らしい。
でも週に何日か王崎先輩のようにオケ部に顔を出しに来るから、その時には『天羽ちゃん』と元気に名前を呼ばれる。
月森くんはウィーンに留学して充実した日々を送っているらしいことは香穂の元に届くメールに記されているようだ。

「それにね、情報源は言えないけどこの前のGWに香穂がスーツを着た男の人と六本木ヒルズを歩いている姿を見た、って子もいるのよね」

残念ながら私が見かけたわけじゃないのだけれど、同じクラスの友達が彼氏と六本木ヒルズへと遊びに行ったときにヴァイオリンケースを持って男の人と歩いている香穂を見た、と新設にも教えてくれた人がいた。
音楽と近しい学校だからか、ヴァイオリンケースを見て反応したらしく、持ち主を見たら日野さんだった。一緒にいたのはスーツを着た大人だったけれど、詳しい顔は覚えてない、と。
その情報に感謝したのは、既に2ヵ月近く。
香穂の口から何か言われることを待っていたんだけれど―この様子じゃ、香穂はきっとずっと私に内緒にしたままだ。

「流石に男の人の顔までは見えなかったらしいけど、六本木でヴァイオリンケースを持って歩いている人なんて珍しいから見たら香穂だったって」

まだ中身の入っている紙コップをマイク代わりに向けらる。
勿論、簡単に喋ってくれるとは思わないけれどそれでも仮にもお互いを親友だと思っているのだから―少しくらい喋っていくれてもいいじゃない、と思う。

「うー、記事にしないと言う約束が出来るなら、少しだけ話します。だけど、相手は年上だから言えないこともあるし、菜美にも秘密を共有してもらうことになるよ」
「…うーん、注目の人物のネタを記事に出来ないのは悔しいけど、親友の秘密を売ってまで記事にはしたくないしね。天羽さんは友達の秘密には口、固いよ。周りにはウチの学校の生徒もいないし、ほらほら」

ちょっと前から、入ってきた時にいた星奏学院の生徒は全ていなくなった。
まぁ、いくら日が伸びたからとはいえ8時も近くなったから皆帰ったのだろう。
香穂は学校まで歩いていける距離だし、私も電車で一駅だし放任主義な家だから11時を過ぎなければとりあえずお咎めはない。

「…年齢は、確か32歳。ヒルズではないけれど、ヒルズに近い高級高層マンションの上階を借りてる、セレブなんだ。で、会社の役付きなの」
「そんな人と、何処で知り合ったのさ。香穂子にそんな暇、ないでしょ?」

たった一人、身近にいるセレブが入るけれどあんな人は自分の経営する学校の生徒を―香穂を”商品”としか思っていないからまずは違うだろう。
第一、あんな女関係にだらしがなさそうな人、香穂には似合わない。
っていうか、絶対に香穂が泣きを見る。

「ヴァイオリン関係で、ちょっとね。お付き合いし始めたのは…ホントについ最近。3年生に上がるちょっと前」
「…じゃあ、この前の教会での演奏会できてたドレスってもしかして?」

私はGW明けに、香穂はいつものメンバーでアンサンブルを組んで演奏会を催した。土浦くんに志水くん、冬海ちゃんに加地くん。そして私の5人で2曲。
そのコンサートで、香穂は今まで一度も見たことのない―上品なホワイトゴールドのドレスで演奏をしてた。
ヴァイオリニストだからネックレスなどはしていなかったけれど、結い上げて露になった耳には―女子高生でもわかるような高い宝石をあしらったピアス―音楽科に転科する際に記念として開けたらしい。今も、小さいながら香穂に似合う小さいダイヤのピアスをしている―をしていた。

「あー、うん。今までのでいいって言ったんだけど、音楽科に転科して初めてのコンサートなのだから、とか言って前日に一式届けられてさ。着なかったら後が怖いし」

決まりが悪そうな、けれど少し幸せそうな笑顔を向けられる。
あのピアスも金額聞いたら倒れちゃいそうだから聞いてないし、なんて言われるともう世界が違う気がしてくる。
けれど、まさか香穂が大人の男性と付き合い始めた、と香穂を狙っている面々に知らせたらどれだけパニックになるのだろう。
表面上はあまり出していなかったけれど、多分柚木先輩が一番香穂に執着していたような気がするからきっとその情報が入ったら学院にまで来て確認するんじゃなかろうか。

「うーん、独占欲強い感じなんだね、その人」
「バッリバリですよ。ホントはGWはアンサンブルの練習をしたかったんだけど、休みの間に他の男と会われると耐えられないとか何とか言ってお泊りだった…あ、ごめん。電話出ていい?」
「どーぞどーぞ」

脳内メモに、香穂の彼氏に対する情報を書いていく。
 ・32歳男性でセレブ。会社で役職持ち、六本木に自宅有り
 ・ヴァイオリンを通じて香穂と知り合う
 ・独占欲強し
…どんな人?
一番初めに頭の中に浮かんだのは、我が学院の若き理事長。年齢なんて知らないけれど、確か彼は金澤先生の後輩で、どっかの金融関係の会社数社で役員として勤めていた気がした。
もっぱら最近は理事として働いている時間が多いのかよく学院にあのど派手な黒い車を見かけるけれど。

氷が解けた水しかない中身をズズズ、と音を立てて吸い上げる。
香穂は少し離れたところで嬉しそうな笑顔だから、電話の相手は話題に上がった年上社会人の彼氏なのだろう。
暫くすると、香穂は電話を切って席に戻ってきた。

「お帰り〜、例の彼氏?」
「あー、うん。仕事終わったから逢えないか、って」

そういいながらもそわそわとしている様子を見て、純粋に可愛いなぁ、と思う。
自分には縁のない可愛さだから。

「仕方ないなぁ、もっと話したいけど今日はお開きにしてあげるよ」
「菜美、ごめんねっ! 愛してるー!!!」
「彼氏の次に、でしょ?」

万歳と両手を上げて喜ばれるのも、悪くない。

「でも、菜美と冬海ちゃんは女の子の中で一番、だよ?」
「私も香穂を愛してるよ」

パチン、とウィンクひとつ投げてトレイを片してからファーストフード店を出る。
梅雨だけれど今日は久々に晴れたから、雨が降った日より湿気のジメっとした暑さが少ないけれどそれでも体にまとわりつくような暑さにうんざりする。
7月の半ばになればイヤでも梅雨が明けるだろう、そうすればもう少しカラッとしてくれるはず。

「じゃあ、月曜日に学校で」
「うん、今度今日の埋め合わせするからね」

バイバイ、と手を振って香穂は来た道を、私は駅までの道を歩いていく。
数歩進んだところで、今日一番聞きたかった―否聞かなければならなかったことを思い出して後ろを振り向いた。

―そして、見てしまった。
見慣れた浅黒い肌の、整っているけれど意地の悪そうな鬼理事長が―優しい顔で香穂に微笑みかけているのを。
そして、香穂の腰に手を回して見せ付けるように耳元で何かを囁いているの、を。

既に2人の世界を作り上げてしまっているからその世界を壊して面倒を起こしたくないから取りあえず今日は引こう。
けれど月曜日には絶対に、香穂がどれだけ逃げようとも真相を聞いてやる、と私は意気込んだ。

 

終演