「望美、何を言っているのかわかってるのか…?」

思わず声が震えた。


アナタの居る世界、アナタが居ない世界 


望美が元の世界に戻ってからというもの、俺は別当と頭領の仕事を闇雲に頑張った。
戦の後始末などやらなければならないこともあったし、1年間八葉として望美と一緒に行動していたツケとして片付けなければならない仕事も山ほどあった。それらをこなしていても、突如心を襲う、空虚。
健康な男子として真っ当な『女を抱きたい』という欲求は湧き上がっても、適当に一夜限りと割り切って花を手折る気にもならなかった。それは、望美に振られた後―彼女が元の世界に戻る前日に交わしたたった一夜の逢瀬が原因で。

今まで快楽だと想っていたものが偽りだったことを、自分は知ってしまったのだ。愛しいと想う存在との房事は、この上ない快楽と精神的に充実したものを与えてくれた。

それ以降、俺は口説くことはあっても誰かと房事をすることはなくなった。

「わかってるよ。―もう、後悔したくない。ヒノエくんと別れることほど、私には哀しいことなんてなかった」
「望美が! 俺のところに来るってコトは、熊野別当の奥方として俺と一緒に熊野を守るということだ」

賢く、戦術にも明るい望美ならば別当の正室として申し分ないだろう。―それは、十分解っている。親父も、望美ならば喜んで自分の娘として迎え入れるだろう。―下手したら、ちょっかいを出しまくってくることだって予測は出来る。
だが、俺の願いと望美の想いが一緒なはずがない。俺と一緒に来たい、一緒にいたい、というだけではあの世界は危険だ。俺の正室というだけで命を狙われかねないし、過去相手にしてきた姫君たちから嫉妬されて嫌がらせを受けることだってある。

「知ってた? 私も、熊野が好きなんだよ。ヒノエくんがあの頃から私より大事だと豪語していた熊野が、私だって好きなんだよ?」
「…俺のところに来たら、一生離さないよ。此方に戻りたい、といっても俺は絶対に離さない。それでも、構わないか?」

望美の頬を両の手で挟み、真っ直ぐ見つめる。俺の言葉に頬を紅くした望美は恥ずかしそうに俺を見ながら頷いてくれた。頷いて、望美が俺に抱きつく。
剣を持たなくなったからか、あの頃より少し柔らかくなった身体。髪からは、此方の香だろうか、いい香りが漂ってくる。抱きつかれたことで当たる、望美の胸の柔らかさに浅ましい己の欲が湧き上がってきてしまう。
けれど、その欲望を振り切って望美の体を離す。これ以上こうしてくっついていたら此処で房事を行ってしまいそうで。久しぶりの行為を、このような場所でしたくなかったし、出来ることならばあちらに戻ってから―誰にも邪魔をされず、心置きなく肌を合わせたかった。

「なら、早く譲に会いに行こう?」
「うん、譲くんにだけはきちんと真実を告げてから行きたいから…。ゴメンね、我侭で…」
「姫君の我侭を聞くのも、男の甲斐性だろう? それに、神子姫様は俺以外の男に我侭を言うつもりかい?」

愛らしい姫君の我侭を聞くのも、男の甲斐性。
『熊野の男は、姫君たちに優しくあれ』
何時、誰が唱え始めたことか知らないけれども、それを実践していない熊野の男は数少ない。物心がつき、元服を迎えるか否かの歳になれば、熊野の男は皆女人に優しくなる。それが、熊野の男だ。
だから、熊野の女は男に甘えるのが上手くなる。それを不思議だと思ったこともないし、疎ましく思ったこともなかった。けれど、愛しい人が甘えてくるのは格別で。それが多少の厳しい我侭でも叶えたくなるのは、やはり相手が愛しいからか。

「そんなことされたら、俺は嫉妬で相手を火炙りにしてしまいそうだよ」

愛しい存在が、望美が俺以外に甘えるのは、見たくない。それが望美の父親だとしても―、だ。

「…私が、好きなのはヒノエくんだけなのに?」

少し潤んだ瞳で、見上げられてプツン、と擦り切れていた理性の糸が完全に切れた音がした―気がした。


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